これは俺の大学時代の先輩、柴田さんが経験した話だ。
柴田さんはフィールドワークを専門とする文化人類学の研究者で、
学生時代から国内外の民俗信仰や儀式文化に興味を持っていた。
数年前、彼が卒論の題材を探していた頃、とある小さな離島に興味を惹かれたという。
その島は本土からフェリーで1時間ほどの場所にあるが、観光地としても特に名が知られているわけでもなく、調べてもほとんど情報が出てこなかった。
大学の資料室で古い郷土誌を漁っていた際にその島の名を見つけたのがきっかけだった。
「御崎島(みさきじま)」と呼ばれるその島には、年に一度“海渡り”と呼ばれる独特の神事があると記されていた。
それは島の外からやってきた“何か”を、海に送り返すための儀式らしい。
柴田さんは、興味を惹かれ、大学の後輩と二人で現地調査に赴いた。
───フェリーで到着した御崎島は、予想以上に小さく、集落も一つだけだった。港には誰もいない。降り立った瞬間、潮の匂いに混じって、ほんのかすかに腐ったような、鉄のような匂いが漂った。
集落の中心にある小さな民宿で、柴田さんたちは宿泊を申し出た。
女将は年配の女性で、二人を見るなり目を細めて言った。
「……今は来る時期じゃないんだけどね。まぁ、仕方ないね」
意味深な言葉だったが、特に詳しくは語られなかった。
その晩、島を散策していると、海沿いの神社を見つけた。
鳥居の奥には朽ちた社があり、注連縄の下に奇妙な石像が並んでいた。
一体一体の顔は、人の顔を模しているはずなのに、どれも目や口が歪んでいて、異様な不快感を覚える。
ふと社殿の裏手にまわると、草に覆われた小道があり、その先に洞窟が口を開けていた。
中に入ると、妙な湿気と共に、かなりの奥行きを感じ、自然に対する畏怖の念を感じた。
引き返そうとした時、柴田さんは「声」を聞いた。
それは、はっきりとした女の声で、こう言ったのだ。
「……帰ってきてくれたのね」驚いて振り返ったが、そこには誰もいなかった。
───宿に戻ると、同行していた後輩が、ひどく青ざめた顔をしていた。
「……俺、風呂入ってたらさ、窓の外に……女がいたんだよ」その島の宿は、海沿いに建っている。
風呂の窓の向こうは崖と海しかない。
「女、こっち見て笑ってた……濡れた髪で……」
翌日、柴田さんは村の古老に話を聞こうとしたが、誰も話したがらなかった。
ただ、ひとりだけ、盲目の老婆が静かに口を開いた。
「この島は、“人じゃないもん”を、迎えてしまったんだよ。昔な……海渡りが失敗してな。祓えなかったのさ」老婆は、柴田さんの手を取り、囁いた。
「見ただろ? 神社の石……あれは“寄せ面”といってな、来た奴らの“顔”を刻んで封じたんだよ」───
その晩、柴田さんは夢を見た。
海の中をゆっくりと歩く女。
濡れた黒髪が波のように揺れている。
その顔を見た瞬間、体が凍りついた。
——それは、同行していた後輩の顔だった。
翌朝、柴田さんが目を覚ますと、後輩はいなかった。
荷物も、靴も、そのまま。
フェリーの時間になっても戻らず、村人も手を貸してくれなかった。
柴田さんは一人、島を離れた。
それから数ヶ月、後輩の行方は知れないまま。
だが、一度だけ。柴田さんのもとに、一通の封書が届いた。
差出人は宿の女将。中には、写真が一枚だけ入っていた。
それは、御崎島の神社の石像の一つ。
そこには——後輩の顔が刻まれていた。
柴田さんはそれ以来、一切のフィールドワークを辞めたという。
「……あの島は、呼ぶんだよ。今も、あの海の底から」
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