俺の母方の実家は、東北の山あいの小さな村にある。
その家には、戦前から使われていたという石積みの古い井戸があった。
子どもの頃は「落ちたら二度と上がってこられねえ」なんて脅かされたものだけど
大人になるとそんな話も笑い話だと思っていた。
去年の夏、十年ぶりにその家を訪れることになった。
祖母が亡くなり、葬儀とその後の手続きのためだ。
親戚連中が帰ったあと、俺だけが数日残って母と一緒に遺品整理を手伝っていた。
そのとき、裏庭の物置の中から、一冊のノートが出てきた。
古びた帳面に、子どもの文字でこんな歌が書かれていた。
いちばん しずかに おちてくる
にばんめは うたってさそう
さんばん めをあわせちゃいけない
しばん おててをにぎらない
ごばん かならずふりかえるな
ろくばん ろくばん ろくばん…
そこから先は、文字が乱れていて読めなかった。
けれど、ページの余白に「井戸のまわりでは歌うな」と何度も殴り書きされていた。
妙な不気味さを感じながらも、俺は母に見せた。
母は目を見開き、しばらくノートをじっと見つめた後
「あんた、このノートどこで見つけた?」とだけ訊いてきた。
「物置。なんか子どもの落書きっぽかったけど」
「……あれはね、叔父さんのよ」
母はしばらく黙っていたが、ぽつりぽつりと話し出した。
母には兄がいたらしい。つまり、俺にとっての叔父だ。
けれど俺はその人の存在をまったく知らなかった。
「小学校に上がる前にね、いなくなったの。裏の井戸で遊んでたのを見たのが最後だって……」
警察も村の人も総出で探したが、結局見つからなかったそうだ。
ただ、近所の子どもたちの間では、井戸の周りで奇妙な歌を聞いたという噂が出始めた。
「ろくばん ろくばん ろくばん」
「ひっぱられる」
「顔がなかった」
そんな証言が重なり、井戸はコンクリで封じられた。
それ以来、誰もその話をしなくなったという。
不思議なのは、その夜だった。
俺は客間で一人寝ていた。深夜、なぜか喉が渇いて目を覚ました。
台所に水を汲みに行こうとして、ふと廊下の突き当たり――井戸のある裏庭に通じる窓が少し開いていることに気づいた。
風の音と一緒に、何か……歌のようなものが聞こえてくる。
「いちばん しずかに おちてくる…」思わず立ち尽くした。
それは、確かにノートに書かれていた“かぞえうた”だった。
聞き覚えのある声だった。俺が子どもの頃、母がよく鼻歌のように口ずさんでいたあの歌に、そっくりだった。
ぞくり、と背筋が冷えた。
あれは、母が作った歌じゃなかったのか?
恐る恐る窓に近づいたとき、軋むような音がして、視界の端で何かが動いた。
庭の奥、封じたはずの井戸の上に、小さな人影が立っていた。
子どものような背格好。けれど、顔が――見えない。
それがこちらを向いた瞬間、まるで胸の中に冷たい水を流し込まれたような感覚がした。
直後、足元から何かに「ぐっ」と引かれるような錯覚に襲われ、思わず尻もちをついた。
その音に気づいたのか、物音を聞きつけたのか、母が部屋から出てきた。
俺の顔を見るなり、真っ青になって「見たのね」とだけ言った。
母はその夜、仏間の仏壇の前で朝まで念仏を唱えていた。
その後、俺はすぐに村を出た。
今も、あの歌が耳に残っている。
「ろくばん ろくばん ろくばん……」あれは本当に、叔父さんだったのか。
それとも、もっと古い“何か”が、あの井戸の底にいるのだろうか。
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